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更新日:2012年1月15日 |
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1月15日 宣教要旨「受け容れられる祈り」 マルコによる福音書11章25節 先週は『山を移す信仰』という話をしました。主に導かれ信仰の歩みをたどる時、その彼方に「私たちの主は山さえ移すことがおできになる」、と信じる信仰の世界が広がっているということでした。信仰は偉大な働きをするということですが、そのためにはひとつ条件がある。それを教えているのが今日の聖書です。「立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」(マルコ11:25)。その条件とは隣人への恨みごとを赦すことなのです。 ところで「恨みごと」と訳した言葉は「敵意、非難・中傷、怒りや不満や裁き、陰口、皮肉」などを含む言葉です。このような思いをすべて捨て去りなさい。でもそういわれたら身動きが取れなくなりそうです。しかし聖書は妥協しません。どうしてそこまで言うのでしょうか。ふたつの理由のうち今日はそのひとつを取り上げます。それは聖書の中の、「人は他の人のことをとやかく言う知恵も力も本当はない」、という教えです。山上の垂訓の「人を裁くな、あなたがたが裁かれないためである」(マタイ7:1)がそうなのです。私たちは「裁く」という言葉を「断罪する」というイメージで受け取っていますが、もともとは「判断する」という意味です。あれこれ非難がましく判断するな。なぜならあなたがたにはそんな能力はないのだから。その証拠に「あなたがたは自分の目には丸太が詰まっているのに、相手の目の中におが屑を取るようなことをしょっちゅうしている」(マタイ7:3-4)。イエスが言われるとおりなら、私たちは能力もないのに分かったふりして物事を決めつけ、他の人のことをとやかく言う哀れな存在、傲慢な者だということになります。だからやたらに決めつけたり、判断したり、裁いたりしてはいけない。そこであなた方は「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは、悪いものから出るのである」(マタイ5:37)と教えました。いままで隣人に抱いていた恨みも怒りも裁きも不満も、本当には分かっていないと思えば薄らいでくるでしょう。自分の足りなさを知り、他の人の足りなさを赦す人、イエスの言葉で言えば「他の人への恨みごとを赦す人、このような人の過ちを神も赦し、その人の祈りを聞いてくださる」と教えました。 このような信仰の世界を生きた人に旧約聖書のヨブという人がいます。この人は神が誇りとされるような信仰の人で、東の国で一番の富豪でした。しかし悪魔のねたみを買ってすべてのものを失います。慰めに駆けつけた友人3人が、やがてヨブに罪があったからそうなったと責め出した時、彼の心は引き裂かれていきました。彼の災難は神の僕として立派に戦うことを証するため神が送った試練だったからです。こうして戦いを立派に終えた時、神は以前に倍する祝福を与えようとされました。しかしその前に神は三人の友人を心から赦すように要求されます。ヨブがついに神の要求を受け入れ、友人のためにとりなしの祈りを捧げた時、神の祝福が彼の上に溢れ出しました。祝福を受けるにはその前になすべきことがある。それは隣人の過ちを赦すことである。聖書が一貫して語る真理です。 |
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更新履歴 2012年
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